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オープンカレッジ
歴史講座
南北朝時代
*** 太平記世界の人間像 ***
27年7月7日(火)    講師 伊藤 一美氏
太平記の群像1  「新田義貞」
高齢者センター大広間 9:30〜11:30
 受講者 72名
新田義貞
 唱歌「鎌倉」で♪稲村ケ崎 名将の 剣投ぜし 古戦場♪ と唄われる名将のこと。
 1333年鎌倉を攻めて鎌倉幕府を滅亡させた軍を率いた。

 足利尊氏と競り合った武士
 足利尊氏との比較
  
勢力官位所領執権北条氏との関係天皇への忠誠度
新田義貞なし越後の国の1つの庄のみなし高い
足利尊氏高位を得ている全国至る所特に三河の国北条氏とは親戚低い
  (尊氏との対立)  新田義貞が結城上野宗広に宛てた手紙   高氏、直義以下の逆徒追討の事、先度綸旨を下され候へ了んぬ。さんぬる月十日   越前国鶴賀の津に臨幸ある所なり、一族をあい催し、時刻を廻らさず馳せ参じ、   彼の輩をちゅう伐せしむべし、恩賞においては請によるべし者は、天気かくのごとし、   之を悉せ、以って状す。      延元元年十一月十二日      左中将(新田義貞) 在判         結城上野入道(宗広)館                              (伊勢結城文書)
  【訳します】
     足利尊氏その弟・直義(ただよし)共の逆賊を追討するよう、先に綸旨が下されていますが、
  三月十日、越後の国敦賀に、恒良(つねよし)親王がお出ましになります。
  貴家一族挙って揃い、すぐさま馳せ参じ、奴らを討伐しましょう。
  恩賞はお望みどおりです。これは親王のお気持ちです。よろしくお願いします。
  以って、義貞が代筆いたします。
  (注釈)
    天気:テケ と読む。テンキとは読まない。
       天皇や親王のお気持ち。 という意味。
   
(義貞の討ち死)  延元3年(1338)閏7月、藤島城攻撃のために出陣、あぜ道に馬の脚をとられて、頭に矢を受け討ち死。 (その評価) =太平記=  大局を見ることなく、越前の平定にこだわり、名もない者の弓矢に当り死去は軽率。
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