戻る
オープンカレッジ
歴史講座
南北朝時代
*** 太平記世界の人間像 ***
27年6月16日(火)    講師 伊藤 一美氏
太平記の群像1  「楠 正成」
高齢者センター大広間 9:30〜11:30
 受講者 76名
楠 正成(くすのき まさしげ) 〔楠木〕とも書かれる。
明治〜戦前まで、「忠君愛国」思想の模範とされた人物。
後醍醐天皇を支えた武士。

正成の登場   太平記の記載
 後醍醐天皇が笠置山に逃げていた時、夢に
「御所の庭に常盤木があり、その木の南の枝の葉陰に座席が
あり、諸公卿らも列席。神童が天皇をここに導く。」
そこで夢から覚める。
 天皇は「南の木」=「楠}という人物を探し出させる。
河内国金剛山付近に「楠木多聞兵衛正成」の住居を確認し
召喚する。
 
時代背景
元弘3年・正慶2年(1333)鎌倉幕府が滅亡して、

元号→元弘(げんこう):南朝がつけた。
    正慶(しょうきょう):北朝がつけた。
出自の諸説
「悪党」正成説 永久2年(1294)東大寺領播磨大部庄(現在の兵庫県小野市)に
「河内楠入道」がいて、「悪党楠兵衛尉」と呼ばれていた。(臨川寺文書より)
「悪党」とは、当時の体制に従わない者をさし、幕府の法令用語であった。
殺人、強盗、略奪などをする悪い奴という意味ではなかった。
「散所長者」説 交通の要所を押さえる長者。貴族や社寺に仕えて雑役を行ったりする者。
特に交易にもかかわる者が多い。「散所」とは、当時、差別用語。
「山椒」(さんしょう)太夫に通ずる。人身売買をやるような者のこと。
正成の商業運送業的な活動をして、諸国を廻っていたか。問屋の役割も。
馬借(ばしゃく)の徒とも呼ばれ、武装集団であった。
伊賀服部一族説 伊賀観世系図に観阿弥の母は伊賀玉櫛庄の橘正遠の女であった説。
楠氏は橘氏。服部氏もまた橘氏出身。正成の母は、信貴山に詣でて彼を
産む伝承あり。観阿弥は正成の甥となる。
葛城山系の修験者説 南河内金剛山系の修験者。金剛砂(水銀のこと)などの流通に関わる
朝廷の供御人出身。
畿内近国の多様な出身の一人で、「悪党」として幕府体制側からは従わない者と見られ、途中から
天皇に近づいていった者。諸説があるように、要するに、出自がよく分からないということ。
「増鏡」に
 笠置殿(後醍醐天皇のこと)には大和・河内・伊賀・伊勢などより兵ども参り集う中に事の始めより頼み思されたりし
楠の兵衛正成 といふ者あり、心猛く健かなる者にて、河内国に己が館のあたりを、いかめしくしたためて、
このをはします所、もし危からん折は行幸をもなしきこれんなど用意しけり。
 延元元年(1336)、九州から足利尊氏が攻めて来るのを、神戸・湊川において迎え打つも
伊予国の武士 大森彦七勢 軍に敗れ、最期をとげる。
(湊川合戦での最期)    =太平記 正成兄弟討死事 =より
「正成、座上に居つつ、舎弟の正季に向かって、そもそも最後の一念によって善悪の正を引くといへり、
九界の間に何か御辺の願なる、と問ひければ、正季からからと打ち笑うて、七生まで只同じ人間に生まれて
朝敵を滅さばやとこそ存じ候へ、と申しければ、正成 よに嬉しげなる気色にて、罪業深き悪念なれども
我も加様に思ふなり、いざさらば同じく生を替えてこの本懐を達せん、と契って兄弟ともに刺し違へて
同じ枕にふしにけり」      『七世滅敵』→『七世滅賊』→『七世報国』と後世で讃えられた。
講義を聞いた後、子供の頃、両親や姉が歌っているのを
聞いたこんな歌を思い出しました。口ずさみながら編集しました。
昨今、この歌は教えられているのかな。こんな歌を歌うなんて、
編者も相当な年齢になったのかな。
♪青葉茂れる 桜井の 里のあたりの 夕まぐれ 木の下陰に 駒とめて 世の行く末を つくづくと 忍ぶ鎧の袖の上 散るは涙か はた露か♪
戻る