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歴史講座
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南北朝時代
*** 太平記世界の人間像 ***
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27年5月19日(火) 講師 伊藤 一美氏 |
太平記の群像1 「護良親王」 |
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高齢者センター大広間 9:30〜11:30 | 受講者 62名 |
大塔宮・護良親王(1308〜35) 後醍醐天皇の子 (おおとうのみや・もりよししんのう) |
配布資料を使わせて頂いて編集しています。 後醍醐天皇、護良親王、足利尊氏を並行して 説明します。 |
後醍醐天皇の討幕計画 (後醍醐天皇の親政) (後醍醐天皇への鎌倉の評判「主上、世を乱らしめ給ふ」) |
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(尊雲法親王の活躍) そんうん ほっしんのう と読む 法親王とは、皇子で出家された方をいう。 ・延暦寺に入寺して大塔宮と号する。天台座主。花山院師賢の偽計発覚後、奈良へ逃亡。 熊野、高野山、伊勢辺りに潜伏か。「太平記」に「大塔宮熊野落」の記載あり。 ・11月、大塔宮は吉野で挙兵。楠正成も千早城で挙兵。 還俗して 護良親王(もりよし しんのう)と名乗る。 |
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高野山金剛峯寺に蔵されている 護良親王の祈願状
「この度の祈願、成就せしめば丹生明神の宝前において、十二禅侶を以って 長日不断の護摩を始むべし、且つ旧の如く人法・仏法の紹隆を専らにすべし、 よって立願する所の状件の如し、 元弘二年十二月二十五日 ニ品親王(花押) (高野山文書) ・「元弘」年号を使用して光厳天皇の正慶年号を拒否していることに注意。 |
(後醍醐天皇の隠岐脱出) (足利尊氏の動き) |
護良親王 ・親王による兵の招集 → 令旨ではなく綸旨を発行、天皇を語って各地の武士に発送。 新田義貞、赤松円心(則村)などが応じている。 楠木正成(楠木兵衛尉、自称は左衛門尉)(河内長野市金剛寺文書)の官位の変化は 後醍醐天皇に代わって、大塔宮が行ったものか。後醍醐は配流中のため、こうした 行為は不可能な筈、つまり、後醍醐の名前をかたる。 (護良親王の自立への意思) ・大和信貴山にて、反尊氏の兵を招集中。後醍醐天皇はこれをなだめる為に親王を 「征夷大将軍」 に補任。後醍醐の意図とは反対の事象を認定せざるを得ない ジレンマ。 ・護良親王は都へ進出。しかし、後醍醐は親王の出した令旨をすべて無効との宣言。 摂津勝尾寺などの令旨は空手形状態。赤松円心は本領の播磨佐用庄のみ安堵、 守護職は召し上げ。8月末、親王の征夷大将軍名をも停止。 ・建武元年(1334)正月、護良親王の弟の恒良親王を皇太子とする。護良親王系統の排除。 (護良親王の失脚と殺害) ・建武元年10月、御所の参内中に逮捕される。結城親光、名和長年の軍勢により。 楠木正成が北条氏残党攻撃のため紀伊出陣の間を狙っての捕縛。 後醍醐と彼らの結び付き、また、名和、結城らと楠木氏との反発情勢も考えられる。 ・足利尊氏によって、鎌倉へ護送され、尊氏の弟・直義の監視下に置かれる。 建武2年に北条氏残党の鎌倉侵入に際して、足利直義によって惨殺される。 =背景にあるもの= ・阿野廉子(恒良親王の母)による尊氏への密告あり。 護良親王は後醍醐から皇位を奪おうとしている。との。 =護良親王の父・後醍醐への恨み言(梅松論に記載)= 「宮は(略)武家よりも君のうらめしくわたらせ給ふと御独言ありけるぞ承る」 |
(後醍醐天皇の親政)
・元亨(げんこう)元年(1321)後宇多法皇が後醍醐天皇に譲位。 院政は停止、親政の開始。
・当時の天皇家→大覚寺系と持明院系の2分化。後醍醐天皇は大覚寺派。
同系統すら兄・後二条天皇と弟・後醍醐天皇に分立。
後醍醐の後は後二条天皇皇子邦良(くによし)、次期は持明院系統から選出。
後醍醐天皇の子孫が天皇を継承することは不可能であったが。
・正中元年(1324)後宇多法皇死亡後、日野俊基、資朝らと討幕計画を画策するも露見し、
土岐頼有、多治見国長らは打たれる。資朝が犠牲となり、佐渡に流罪。後醍醐天皇にはお構いなし。
・翌年、皇太子の邦良親王が死去。幕府は持明院系統の量仁(かずひと)親王を皇太子にすえる。
・後醍醐天皇の不満噴出、皇子の尊雲法親王(後の護良親王)、尊澄法親王を天台座主に。
元徳元年(1330に東大寺、春日神社、興福寺、延暦寺などを行幸、寺社を自己陣営に誘いこむ。
・後醍醐天皇みずから市を開設。米商人から米を安く放出させて、飢餓での食糧難を解決させる。
(主上、世を乱らしめ給ふ)
・元弘(げんこう)元年(1331)4月、「主上、世を乱らしめ給ふ」と鎌倉年代記裏書にあり。
幕府は、日野俊基、僧・俊寛らを逮捕。後醍醐は奈良の南山城笠置寺に籠城。
花山院師賢が延暦寺に天皇と偽り、挙兵の要請をするも、ばれる。
・六波羅勢力の攻撃。幕府は後醍醐を排斥、持明院系の量仁親王(光厳天皇)を践祚。
父・後伏見の院政。笠置城(後醍醐)、赤坂城(楠正成)も陥落。
・元弘2年3月、後醍醐は隠岐に配流。日野資俊(佐渡にて斬首)、日野俊基(鎌倉にて斬首)
文観も流罪。光厳天皇は年号を「正慶」と定める。
(後醍醐の隠岐脱出)
・元弘3年閏2月、隠岐を脱出して名和長年の擁護により伯耆邦船上山で挙兵籠城。
ただ一人の従者・千種忠顕を「蔵人頭*」に任命。*天皇の命令を出す「綸旨」に必要な役。
以後、各地に多数発行される。
・足利高氏もこれを受給。高氏自身も「綸旨」を旗印に自分に従ってくるように要請。
具体例として、陸奥結城宗広には、3月15日付けで護良親王、4月1日付けで後醍醐天皇
同27日付けで足利高氏から夫々届いており、3者が動きだしていることが分かる。
・5月7日、六波羅探題が滅亡、千種、赤松、足利らが攻撃。
これより先に護良親王が「将軍宮」と称えていることに注意(勝尾寺文書)。
・高氏は「奉行所」を開設、戦功の申請を受理、土地の安堵を約束。まさに将軍の行為。
・後醍醐は光厳天皇を無視、正慶年号を廃止。関白鷹司冬教を解任。摂政関白、将軍制度も廃止
して、親政を実施(建武の親政)。後に子・護良親王と対立することの遠因となる。
・但し、足利高氏へは配慮し、「内昇殿」(清涼殿への昇殿許可)、任従4位下、左兵衛督、
そして、「尊」の字を付与。
(足利尊氏の動き)
後醍醐天皇が隠岐を脱出した頃は 高氏と称していた。
・足利高氏は、後醍醐天皇が発した「綸旨」を旗印に、各地の武士に自分に従ってくるように要請。
・5月7日、千種、赤松らと、六波羅探題を攻撃、これを滅亡させる。
・高氏は「奉行所」を開設、戦功の申請を受理、土地の安堵を約束。まさに将軍の行為を実施。
・後醍醐天皇より、清涼殿への昇殿の許可を得、任従4位下の位、左兵衛督の称号を授かる。
「尊」の字を与えられる。以降、足利尊氏を称する。
・建武元年10月、護良親王が御所に参内中に逮捕。鎌倉に護送し、弟・直義の監視下に置く。
直義は、翌2年に北条氏残党の鎌倉侵入に際して、護良親王を惨殺する。