戻る
オープンカレッジ
歴史講座
鎌倉幕府とその時代
史料購読「鎌倉時代人の声を聴く」
26年9月30日(火)    講師 伊藤 一美氏
    第7回  「竹崎季長絵詞」をよむ             受講者 62名
 竹崎季長絵詞(たけざきすえなが え ことば)は、蒙古襲来絵詞として知られている。巻物で 絵が描かれ 文章が添えられている。
 明治23年(1890)皇室に献納。旧所蔵者は細川藩士大家野家(旧天草郡大矢野城主)。破損が激しく状況はかって海中に没し、魚腹から
取り出されたという伝承。文化2年(1805)以前に儒者長瀬真幸らにより2巻に編成。
 竹崎季長は、鎌倉時代蒙古が襲来した際、鎌倉幕府の命令により参戦した現在の熊本県出身の武士である。
(本日の講座の構成)
・文永11年(1274)10月20日、蒙古軍襲来に反撃する竹崎季長主従の様子。5騎で本人、姉婿の三井資安、郎従の藤源太、中間1人、ほか
で参戦した。
・一番懸け武者の行動を記述している。争い当日の大将(司令官)は武藤景資であった。先懸けの功績があったのに、武藤景資の兄経資
からの書下しには負傷の功績のみで、先懸けの勲功の記載がなかった。 これがために鎌倉に直接に上申しようとして、絵詞を描いたも
のである。参戦当時、武藤景資、竹崎季長ともに29歳であった。
・本日は、上巻の第1段、第2段、第3段、第4段で奮戦振りを描いた部分の解説であった。
        
こちらは講義の際、配られた資料。クリックすると広がります。こちらは、当HP編者が現在風の文章に変えたもの

  鎌倉時代蒙古襲来に反撃する戦い(後に元寇の役と呼ばれる)に
 参戦した武士たちの思いが良く分かる。
  自前で、しかも5人足らずで参戦していた。目的は、恩賞を多く
 得ることにあった。戦であるから、死ぬことがある。遺族に恩賞が
 渡るようにしなければ参戦の意味がない。生きて戻っても武功を誰
 かに証明して貰わなければならない。そこに、色々な知恵が繰り広
 げられたことが伺える。人間の生き様そのもの。今よりも切実であ
 ったであろう。
上巻 〔第一段〕
おきの浜(今の博多の中心)には、数え切れない程の兵隊が集まっていた。
季長は、由緒ある一門の方々の中から江田又太郎秀家と親しくなり、兜を
交換しあい、双方の内、若しものことがあったら、生き延びた方が武功を
上に報告することを誓い合った。
敵軍(蒙古軍)が赤坂に陣を構えたので、攻撃に向かうに当たり、大将軍
太宰少弍三郎左衛門景資、野田三郎二郎資重に拝謁すべく、江田又太郎秀
家に案内を乞うた。そして、一緒に合戦に臨み、武功を上申する際には
お互いに証人に成り合おうと約束し合った。
赤坂は、湿地で馬での進軍は、困難なところなので、ここへは進まずに
集結して一緒に突撃しようと堅い約束を取り交わした。
しかし、その内、大将が陣に着くのを待っていれば遅くなると、一同の中
から季長は、「肥後の国の先懸けとならん」と申し出て、駆け出した。       
〔第二段〕
当日の司令官、大将少弍三郎左衛門景資が浜辺の高い所に陣取って、座ろ
うとしている前を、季長達5騎は、乗馬したまま通り過ぎようとした。
すると、景資の家来の太田左衛門が、「降りなさい」と叱った。
しかし、僅か5騎で、これから前面に出て合戦し、敵を打ちのめしに行く
のだから、乗馬のままの無礼を許されよ。と申し出た。
大将、景資は、これを許し、「生きながらえよとは言い難いが、存命して
おれば、鎌倉に武功を申し出る際には、援助しよう」といった。
一門の者たちも従い、敵陣に夜襲を懸けるといい、筥崎の陣を出発して、
博多に向った。       
〔第三段〕
博多の陣を出発し、肥後国の先陣として住吉の鳥居の前を過ぎ、小松原
を通り過ぎ、赤坂へ向かうと、そこには、房々した毛並みの馬に乗り、
紫色の煌びやかな鎧に紅色の母衣をまとった大将がおり、その配下の者
百余騎ばかりが陣取っていた。
その敵の陣に攻め込み、敵を追い払い、首を2つ、太刀と薙刀の先に貫き
左右に持った勇者がいた。感嘆するような格好良さに「お名前を聞かせて
下さい。素晴らし働きでした。」と問うと、その勇者は、「肥後国の菊池
二郎武房と言います。ところで貴方は」と尋ねてきた。そこで、「同じく
肥後国の竹崎五郎兵衛季長です。私も暴れます。ご覧下され。」と駆けて
いった。       
〔第四段〕
武房に、敵は赤坂の陣を破られて、二手に分かれ、大勢の方は、すそ原
方面に退き、小勢は、別府の塚原に退いた。塚原より鳥飼の潮干潟に敵は
集合すると思い、追いかけたが、敵は見つからなかった。
敵は、すそ原に陣を取り、色々な旗を立て並べ、鐘やドラをひっきりなし
に打ち鳴らしていた。
季長が向かおうとすると、藤源太資光が進言するには「お味方が続いて
こられます。お待ちになって、証人になって貰うことを確認してから戦っ
たら如何でしょうか。」
この進言を聞かず、季長は「弓箭の道、先を以って賞とする。とにかく
駆けよ。」と喚いて馬を走らせた。
敵を、すそ原より鳥飼潟の塩屋の松の下へ向かわせての合戦だった。
先頭の者が旗指馬を射られて跳ね落とされた。季長ら3騎も痛手を負い
馬を射られて地面にいたところへ、肥前国の御家人白石六郎通泰が後陣
より大勢で駆けつけてくれ、蒙古軍を退却させ、すそ原を奪取した。
馬を射られて、敵の中を走りまわり、通泰が続いてくれなければ、命を
落とすところであった。思いがけず、命をとり留め、お互いに軍功を証明
し合うことを約束した。筑後国の御家人光友又二郎は首を射抜かれ、戦死
した。これを証明することを誓った。       
戻る