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オープンカレッジ
歴史講座
鎌倉幕府とその時代
史料購読「鎌倉時代人の声を聴く」
26年7月15日(火)    講師 伊藤 一美氏    第5回「相良蓮道置文」をよむ   受講者 68名
講義内容
 相良蓮道(さがられんどう)置文
・延慶4年(1311)、肥後国人吉庄南方の地頭相良蓮道(長氏)が記載。
 これ以前に別の子息たちに譲状を書いているらしい。
・兄弟関係の重視 → 惣領制 との関連。「イエ」における主従の萌芽。
・但し、恩賞の申請は兄弟別々にという点は特殊。所領規模の零細状況がその前提にある。
        
   資料配布あり 下に一部を示す

          教室の光景
蓮道は父親・迎蓮より譲り受けた地頭職、それに田畠・
在家・山野・狩倉・梁にいたるまで惣領(長男)頼広に
譲るものとする。から始まり、次男以下の男の子に、
三郎二郎、九郎、十郎がいて、それぞれに与えるもの
彼岸の行事や寺の湯の役割など日付も入れて事細かく
書かれている。
彼の時代、この地方では、上方(鎌倉幕府の役所)へ手柄
を申し出る際には、弟達も面々(=別々に)行うこと。
となっている。しかし、関東地方、東北地方では、すで
に下記のように変わりつつあったとか。
その後、鎌倉幕府は、別々に手柄を申し立てられても、
分け与える土地もなく、そこで、方針を変えて、惣領制
へと変えていく。すなわち、弟達は、惣領の家来になる
こと。惣領だけが相続するという嫡子単独相続制となっ
ていくのである。
当HPの編者の「わたくしごと」
 編者は、近畿地方の某県の山村で次男として生まれました。家は、先祖伝来の僅かな田畑と山林で生計を立てていました。
子供の頃、両親から、次のように言い聞かされていました。まあ、洗脳されていたわけです。
「うちの田畑と山林は、惣領(長兄のこと、こう呼んでいた)が継ぐんだよ。お前は次男なんだから、分けてくれと言って
はいけないよ。こんな狭い田畑と山林を分けると共倒れだ。皆んな食っていけないよ。」
 子供ごころに、次のように、心の中で啖呵を切ったものです。
「こんな、ど田舎に誰が住むもんか。こんな狭い土地なんかに未練はないさ。びた一文、いやさ、びた1平方米も欲しいとは、
口が裂けても言うもんか。」と。
義務教育を了え上の学校へ進んだ際、学費と下宿代は親父と兄貴に負担して貰いましたが、田畑、山林の相続権は完全に放棄
しました。
 あれから60年。現在、逗子に住んでいます。現役時代は、東京や横浜で働いていました。
編者が子供の頃の、山村での家の在り方、子供への相続のやり方は、鎌倉時代に形成されていたんだな。狭い国土の農耕社会
では、必然的にこうならざるを得なかったんだなあ。自分もその風習(封建制度というのでしょうか。)に浸されたのだ。
と感慨深く受講させていただきました。
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