私と「なつメロ」 池子第5長生会 間島 次男 広報紙「ゆめほととぎす第9号」平成20年11月発行 掲載より
逗子市の高齢者センターで行われているサークル活動の1つの「なつメロ愛好会」に参加するようになって、早くも
5年弱の歳月が経過しました。
私は懐メロ、分けても戦前、特に昭和10年代の歌謡曲に興味を持っています。昭和8年生まれで、終戦時満12歳
でしかなかった私が、どうしてそのような時代の歌に懐かしさをおぼえるのか、ちょっと不思議に思われるのですが、
恐らくそれは私の父と家庭環境の影響があったのだと思います。
昭和10年代初頭の頃、父は東京の渋谷区公会堂通り、今のJR恵比寿駅の近くで店内装飾業(分かり易くいえば看板
屋さん)を営んでおりました。駅近辺の呉服屋等の商店の装飾や、渋谷から広尾に通ずる道沿いにあった「帝国館」と
いう映画館の看板を描く仕事をしていました。
その得意先の1つにレコード屋があり、私の記憶では今の恵比寿駅のガードの広尾よりの所にあったと思いますが、
恐らくその店の仕事をした際に、店頭で試聴用に使ったレコードをもらったのではないかと思っています。
今でも私の家に当時のレコードが100枚近くありますが、各レコード会社の白いラベルの宣伝盤がかなりあるので、
そうであったのだと思います。
父は当時としては割合モダンなところがあり、趣味で油絵を描き、春陽会所属の絵描きたちと交際をしたりしていて、
貧乏暮らしではありましたが、ビクターの蓄音機(手動でゼンマイを動力としたもの)を持っていました。
私が5〜6歳頃には浅草の6区でレビューの舞台を観に連れて行ってもらった微かな記憶があります。
父はその後、昭和14年夏に横浜市の磯子区杉田に居を移し、古書籍と文房具を扱う店を始めましたが、ラジオ屋さん
に教わりながら蓄音機とラジオを結び付けて、自家製の電気蓄音機を作ったりしていました。
私が大好きな淡谷のり子の「東京ブルース」は、この当時のレコードで聴いて覚えたものと思います。「東京ブルース」
といえば、今は一般に西田佐知子のそれが知られていますが、私のは一代前の「東京ブルース」であります。
さらに当時わが家には商売柄物置の中に、買い入れた古本が山のように積んでありました。その中に戦前、戦中の
「映画之友」のバックナンバーがあり、それを小学生のくせに暇にあかして読んでいました。
現在私が戦前の洋画、邦画について、とても興味を持っているのもそれが原因していると思います。
昔は映画となればストーリーを主題とした歌が作られたもので、映画と歌謡曲は密接不可分の時代であったのです。
現在私の家に残っている古いレコードの中にも、いくつかの映画主題歌があり、中でも昭和14年に封切られ、
日本中を席捲した映画「愛染かつら」三部作のナレーション入り4枚組みのものがあり、私は映画は観てないのに
「旅の夜風」「悲しき子守唄」「愛染夜曲」「朝月夕月」「愛染草紙」「荒野の夜風」の6曲について記憶に残すことが
できたのだと思います。
また私の姉(昭和3年生まれ)が割合歌が好きで、女学生時代に良く「湖畔の宿」とか「湖畔の乙女」などを口ずさん
でいたのを記憶しています。
このように人と懐メロとの係わりについては、各人の過ごした生活環境等によって決まるので、大正末年や昭和初期に
生まれたからといって、全て昭和10年代の歌に知識があるわけでもなく、各人各様に年代的にバラツキがあるのは当然
であると思います。更に「なつメロ」が好きだといっても、その好きさ加減はそれぞれ人によって違いがあるのも当然で
す。例え歌える曲の数が少なくとも、その歌がとても好きであるのなら立派な「なつメロ好き」であり、また特定の歌手
が好きで、その歌手の歌に深くのめり込んで行くのも「なつメロ好き」の1つの形だと思います。
私は昔の歌について、そのオリジナル歌手の声を聴いて、その歌についての時代背景や、その歌手や作詞家・作曲家に
ついてのエピソード等を、資料を集めて読むことが大好きです。これも「なつメロ」の愛し方の1つの形だと思っていま
す。
75歳の今になっても、私に「なつメロ」という趣味を持つ素地を残してくれた父と、当時の生活環境に感謝している
ものです。